BOOK&

小説、エッセイ、たまに哲学。マイペースに読み進めてます。

映画「沈黙-サイレンス」とフーコー

「沈黙」

 

f:id:jelly-in-the-merrygoround00:20190105140436j:plain

 

映画『沈黙‐サイレンス‐』公式サイト

 

ついに観ました。

拷問シーンにおびえてて映画館に行けずでしたが、むしろ原作の方が描写がえぐかった。

誰にも感情移入させない、距離感のある映像がよかった。

マーティン・スコセッシ監督の解釈がラストで思いっきり入っていて、それだけがモヤモヤしております。

 

宣教師にとっての棄教は、自分の大事なものを他人である日本の農民たちのために捨てるということ。逆説的だけど、信仰の実践だと思った。

 

これまで聖書というテキストを信じるだけでよかったが、理不尽な現実を前にして自分の頭で考えることでより真実に近づいていくのではないか。

神の沈黙を前にして、それぞれにとっての真実が明らかになり、生死が分かれたように思う。ロドリゴ、ガルペ、フェレイラ、キチジロー、踏み絵を踏まず殺されていく農民たち。

 

最近読んだ、ミシェル・フーコーの講義集に近いことが書いてあり、つながった。

 

 

キリスト教聖典と自己のあいだに根本的な結びつきを置いてきました。実際、私が自己を知りうる、私の思考にたえまなく検閲を「ほどこして少しずつ良い観念と悪い観念をより分けることができる、しかるべき区別を行うことができるのは、私が教義の真理と聖典の真理に対し、安定した強固な関係を結んでいるからです。

(中略)

したがって、真理への二種類の関係は互いが互いの条件です。私は私の真理を知らなければ、聖典の真理に帰依できない。そして、私の秘密を私が探るうえでは、聖典の真理が私を導いてくれる。聖典読解と自己の言語化は根本的につながっているのです。聖典を読み、理解しようとするなら、私は自分自身を言語化しなければならない。

 

*1

 

 

悪をなし真実を言う: ルーヴァン講義1981

悪をなし真実を言う: ルーヴァン講義1981

 

 

そして真実とは普遍的なはずだが、「沼」である日本に根付かないという言うフェレイラ宣教師の言葉は矛盾している。

 

信じたいことを信じることが強さなのか、弱さなのかも問われている気がした。

 

*1: 「悪をなし真実を言う ルーヴァン講義1981」から