BOOK&

小説、エッセイ、たまに哲学。マイペースに読み進めてます。

ハイデガー「存在と時間」

 

はじめに

存在と時間」はどうやら未完みたいです。そして存在についての記述がメインで時間についてはこれから触れていこう、というあたりで終わってしまった。

書いてあることも、時間については「ふーむ」というくらいでびびっとくる部分が少なく自分の理解も及んでいない点が多いと思うので、「存在」中心にまとめています。

かなり難解な表現も多く、すべてを理解できたとは言えません。あくまで現時点で理解でき、かつ取り入れていきたいと思ったことを書いています。

 訳書と解説本の紹介

 アマゾンのレビューが良かったので、ちくま学芸文庫の上下巻にしました。

哲学書なのでちょっと高いけど、内容を考えると安いのかなとも。

 

マルティンハイデッガー存在と時間

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

竹田青嗣「完全解読 フッサール現象学の理念』」

完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)

完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)

 

 

師であるフッサール現象学について知ろうと思ってカントに続いて、竹田先生の本を読みました。思いのほか簡単かつあっさりした解説で、wiki読むだけで十分だったんじゃ・・・・と思う内容だった。カントの解説本はすごくよかったので期待値が高かったのか。

 

続いてハイデガーの解説本

 その①

ポール・ストラザーン「90分でわかるハイデガー

90分でわかるハイデガー (90分でわかるシリーズ)

90分でわかるハイデガー (90分でわかるシリーズ)

 

 

タイトルそのままで、わかりやすい。さっと読める入門オブ入門。

これで興味が出たのでもう少し詳しい新書へ。

 

 その②

轟孝夫「ハイデガー存在と時間』入門」

ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書)

ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書)

 

 

これはすごいよかった!十分大枠は理解できて、賢くなった気もした。

ちくま文庫を手に取ったのは、個人的に解説本だけ読んでる姿勢じゃダメだなと思っただけ。

 

 

 ハイデガー略歴

ハイデガーの略歴を読んだとき、理解しにくい出来事ばかりだと感じたんですが「存在と時間」を読んだらすっと納得できた。

 

マルティン・ハイデッガー - Wikipedia

 

ハイデガーで覚えてしまったのでこの読み方で表記します。

 

キリスト教神学から入り、次第に哲学思想を深め、教え子のアンナ・ハーレントと不倫関係になり、ナチス党に入党し、大学総長の指名受け入れのため、師であるフッサールへの謝辞の序文も削除するようになり(ユダヤ系だったため)、戦後はナチスとの関わりから大学の職を奪われる。

ドイツ語を生ける言語とし、ドイツ文化の民族的な要素を好んだという。

今の日本でいうと、右寄りな知識人といった立場だったのかな。

 

現存在とは?ー本来性・非本来性

現存在とはいつでも私自身である存在者であり、その存在はいつでも私の存在である。

 

現存在=人間という存在で、つまり自分自身。

現存在は本来性、非本来性という2つのあり方に分けられる。

まずは、理解しやすい非本来性から書きます。

 

非本来性 とは?

 

①世間話②好奇心③曖昧さ④頽落(たいらく/人間が事物化)といった態度で日々を送るもの。

やがて来る死から目をそらし「ひと」(世間)の目を基準にして振る舞う。

死というものは不安や不気味さといった居心地悪さを伴うもので、そこから目をそらすことをハイデガーは逃亡・頽落という。

この感覚はわかりやすく、なるべく世間から後ろ指さされない「ふつう」の生き方を目指し、死のことはいざ迫ってきたときに考えようという、日常に近い感覚だろう。

 

本来性とは?ー死に臨む存在である自覚

一方、本来性は自分の死に向き合うことを求める。そうすることで初めて、自身の開示態(明るみ)を存在できる。「アレーティア」(秘匿されていない状態)になるという。ひとの死と自分の死はまったく違う事態であり、日常の中でひとに合わせて生きていても、限りある生である以上、延長線上の途中で自分は消えてしまう。

時間も絡んでいて、公開的時間とわたし自身の時間は違うものというところに関連づけられていた。

  • 公開的時間・・・歴史や世間の時間で終わりがない
  • わたし自身の時間・・・有限

 

自分の死というエンドに常に臨むこと。私たちが存在するや否やみずから引き受けるもの。そう思うと、考え方も振る舞いも真剣さを帯び、生きるということへの真摯さが増した。

 

この「死へ望む存在」が先駆であり、おのれ自身の最も極端な可能性(死)について自己を自己自身に開示する=了解することができて初めて、本来的実存というあり方ができるという。すると、自らと違う諸存在の存在を同時に理解できる。

それを思い出させる良心の呼び声は私たちに備わっているという。耳を傾けることができるかどうかだという。

 

現存在は存在しつづけている間はたえず、すでにおのれの未然を存在しており、そしてそのように、またいつもすでにおのれの終末をも存在しているのである。

 

本質上その存在において将来的であって、それゆえにおのれの死へむかって自由に打ちひらかれ、死につきあたってくだけ、こうしておのれの事実的な現へ投げかえされることのできる存在者ーすなわち将来的であるつつ同根源的に既住的な存在者、かような存在者のみが、相続された可能性をおのれ自身へ伝承しつつ、おのれの被投性を引きうけ、そして≪自己の時代≫へむかって瞬死的に存在することができる・・・

 

 

感想

その生き方でいいのか?という投げかけが強烈で、ひとの目から解放してくれる本だった。メメント・モリ

ただ、ハイデガーからのこう振る舞えという答えがあるわけではなかった。ハイデガーの人生自体がハイデガーにとっての本来的な生き方を示しているよう思えたけど、他者との関わりの中で見たときに受け入れにくいものだと感じた。

「本来的」というあり方で何でも許してしまうと道徳も社会も崩壊してしまう気がして、一歩間違えると危険なんじゃないかと素直に思った。

 

哲学と道徳の大きな差を見た気がした。